私は信じている
今、非常に心がざわついている。
たぶん、これは怒りという感情なのだと思う
すでに成人しているし、同じような境遇でも、りっぱにやっている人はいるのだと思う。
しかし、16才から頼る大人がいなかったとしたらと想像してみて欲しい。
あなたの子どもが、あなたの隣人がそうだったらと想像してみて欲しい。
若者は、高校に行きたがっていた。
どんなにヤンチャでも、その子が高校に行って学びたいという気持ちがあったのなら、それを応援するのが教師の勤めだと思う。
しかも、ヤンチャだからと門前払いしてしまう日本の教育。
教育とは何だろうと考えてしまう。
学校とはせめて、思いを受け止める場所であって欲しい。
生まれ落ちた環境の違いで、チャンスや可能性に違いがあるのは仕方の無いことだとは、私も知っている。
しかし、その違いを少しでも小さくする努力は、惜しんではいけないのだと思う。
社会的に弱いもの、手助けがいる人に優しい社会は、全ての人が生きやすい社会であることは確かだ。
駅のエレベーターだって、初めは車椅子の人のために作られた。
今では、ベビーカーのお母さん、キャリアバッグの旅行者、ご老人、足にけがをした人だけでなく、仕事に疲れきった人、その他、その他、誰もが便利に使っている。
マイノリティとそうでないを区別するものなんて、想像力の違いだけのような気がする。
いつかは自分もそうなるかもしれない、いつかは自分の大切な人もそうなるかもしれない・・
少なくとも、全ての人は老いて行き、今よりは必ず不自由な体になるのだから・・
16才で頼る大人がいなく、社会に出なければならないとしたら、どれだけ頑張って生きてきたのか・・
中学校を卒業した私がそうなったらと考えても、どうやって生きて行ったら良いのか見当もつかない。
まずは自分で稼がなければならない。
しかし、18才までは運転免許が取れない。
運転免許が無いと就職には圧倒的に不利となる。
(しかも18才になったとしても、運転免許を取るには30万円を稼がなければならない)
誰も頼る大人がいないということは、保証人になってくれる人もいないということだ。
運転免許もなく、保証人もいなければ、つける仕事は限られる。
住居も自分でなんとかしなければならない。
家はあって当たり前、無ければ借りることが当たり前思考の私が、家がなくなったとしたら・・
お金もなく、保証人になってくれる人もいなければ、今夜からどうしたらよいのか途方にくれるしかない。
それでも一生懸命に稼ごうとしている若者を、安く安く使おうとしている大人に激しく怒りを覚える。
頼れる大人がいないということ=情報難民になって、入り口は大きく、出口は非常に狭くなっている企業の戦略に掛かってしまっていることに非常に憤りを覚える。
抜け出そうとしても、カードが作れないから、より低価格のサービスを受けることができない。
そんな大人ばかりではあるまい。
そんな企業ばかりではあるまい。
しかし、そうでない大人はどこにいるのだろう。
そうでない企業はどこなのでろう。
私さえわからないのだから、若者が知るはずもない。
私は祈り、そして、信じる。
貴方が懸命に生きていたことも知っているし、懸命に生きて行こうとしていることも知っている。
見た目が9割と言われるけれど、それでも貴方の周りにはいつも人がいる。
誰よりも家族を作りたがっていた貴方が、いつか家族を作り、幸せに暮らしていることを私は想像する。
それが現実になることを私は信じて疑わない。
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