そもそもの始まりと今の想い
ずっと保健室で仕事をしてきました。
養護教諭として、至らない所や失敗も多々ありました。
そんな私が、どうして、このブログを書こうと思ったのか・・・
これから、何をしようとしているのか・・・
そもそもの始まりを書いてみたいと思います。
たくさんの子ども達と出逢ってきました。
そんな中で、いまだに強く覚えている子ども達がいます。
それは、保健室で多く関わって来た子ども達です。
保健室は、けがや病気の手当をする所です(それだけではありませんが)。
しかし、保健室で多くの時間、関わってきた子ども達は、不登校やいじめや集団不適応などで、とても困っていた子ども達でした。
『生きづらい』という言葉をよく聞くようになりましたが、まさに『生きづらさを感じている子ども』たちでした。
けがや病気で体が弱っている子どもが来る所ですが、心が弱っている子も来る所なのだとつくづく思います。
けがや病気の手当ならば、何をしたらよいかはわかります。
しかし、心の手当はどうしたらよいのか・・・
教育基本法には、『養護教諭は、児童の養護をつかさどる』とあります(第28条)。
この『養護をつかさどる』とは、児童生徒の健康を保持増進するためのすべての活動をいいます。
つまり、養護教諭の仕事は、基本的には専門性を活かして、子どもたちの健康を保持増進するための活動を行うことです。
健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態です(世界保健機関憲章より)。
心が弱っていたり、集団に適応できなくなっている子ども達の精神的、社会的健康のために、私に何ができただろうか・・・
そんな難しい事を言わなくても、目の前に困っている子がいる。
目の前に支援を必要としている子がいる。
人に相談したり、本を読んだり、勉強会にいったりと支援の方法を模索しました。
それなりに努力したつもりでした。
現状は分析できる、でも、だからといって、どうしたらいいかがわからない・・・
結局は、何も出来なかった・・・
これが、長い間の私の思いです。
その子達の、生きにくさ、困難さに対して、何も出来なかった・・・。
そんな中で、15年ほど前に、ある子どもの問題で、外部の専門相談機関に相談に行くことになりました(当然、保護者の方の了解を得てですが)。
そして 外部の専門相談機関に行ってみると・・・
それは驚きの方法でした!!
そんな解決方法ってあるのですか!!
もっとカウンセリングをするとか、保護者の方と話をするとかじゃないのですか!?
でも 確かに問題は解決する。
まさに手品!!
この手品の種を知りたい!!
これが私と家族療法(システムズアプローチ)の出会いです。
それからは、その考え方とスキルでずっとやってきました。
それができた大きな要因には、校長先生が認めてくださったという事があります。
ブログに書いているように理論とかスキルについて細かく説明したわけではないので、
校長先生にとっては、
何だかわからないけれど、問題が解決して行く・・・
何だかわからないけど、佐藤の言うように膠着気味だった事が動いて行く・・・
という感じだったろうと思います。
私一人の力では、きませんでした・・・というよりは、学校という場で、一人では無理です。
日本語の全く通じない所で、いくら良い事を言っても通じないように、
私の言っている事を理解して、一緒にやってくださる方がいて、
初めて効果は何倍にもなって、子ども達に返って行きます。
もし、日本中の先生が、この方法を知り、使ってくださったら・・・
子どもたちはもちろんですが、保護者も教師も楽になる・・・
私のスキルなんて、まだまだです。
卑下でも何でもなく、これを先生方が知ったならば、私以上に子ども達の力になってくれると信じています。
日本中の学校で、家族療法(システムズアプローチ)の考え方とスキルが共通言語になるという野望を抱いて、ブログを書いています。
ときに野望の火は消えそうになります。
それどころか、私ごときが・・・という言葉が、しょっちゅう頭の中を駆け巡っています。
写真は、当時の校長先生から退職のときにいただいたハガキです。
目の前に貼っています。
そのハガキが背中を押してくれています。
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コメント
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誰が困っているのか?その事実は具体的にどんなことか?
事実は一体どんなことなんだ?いつ起きていつ収まるのか?肯定的に話を聴く、肯定的に話を返す。書いてしまえばそれだけのことですけどね。具体的なことはやれるけど、理想は語れるけど使いにくいし具体化しにくい。「べきである」というゴールでは使いにくいかなと思います。
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Re: 誰が困っているのか?その事実は具体的にどんなことか?
>>1 kuma-gさん、コメントありがとうございます。学校という場は、「べきである」と思わなくても、そうなってしまう場が多い所です。ある意味、それは必要な事でもあります。家族療法とは真逆な面もあり、学校という場には浸透しにくいのかもしれません。しかし、そのことが子ども達にも、保護者の方にも、教師にも有益ならば、取り入れた方がいいですよね。「べきである」が必要な場面、家族療法が必要な場面、柔軟な考え方が出来る事、それが大切かと思います。